「失われた時を求めて」

 読み終えました、ちょうど1年かけて。いくら全13巻の大作でもちょっと時間かけ過ぎかもしれない。思えば20年以上も昔、新聞連載小説にこの小説が登場したのが縁の始まり。主人公が定年になったら読もうと買揃えていたという件があって、それから2、3年後だったろうか新訳が出てきた。その時に買い求めたのがきっかけだった。その時は漠然としか考えていなかったけど、本当に定年になった翌日の4月1日から読み始めるとは思わなかった。

 

 読み始めてすぐにこれはたいへんだと思った。(ここから作品内容に触れていくのでご注意を)とにかく文章が難解なのだ。極端にいうと翻訳の日本語が日本語になっていないように思えるくらい。自分の読解力を棚に上げて、翻訳が悪いからかと思っていたのだが、どうも原文からして相当読みづらいものらしいことが分かった。20世紀の小説で最もすぐれたものの一つといわれているこの作品に挑戦してみようと思ったのだが、のっけから頓挫してしまいそうになった。とにかく滞在するホテルの部屋の様子、窓から見える海の風景とか夜会で演奏された音楽などなど全編に渡って精緻な描写が行われるのだが、正直、まるで理解できない。そして困ったことにこの描写が延々と続くのだ。ちょっとしたきっかけがあって夏に同時並行で「悲しき熱帯」を読んだのだが、ここでも船上からの夕景の描写が難解なうえに延々と続いて閉口した。詩でもなければ小説でもないのに。フランス人って、こんな表現に執着するのだろうか?

 

 のっけからこんな状況になって方針を転換した。理解しようなんて止める、とにかく読み進めよう。風景や心理の描写が続くところはもう割り切って眼球の上下運動に留める。ストーリーの展開を追うことに集中しようと。こうして読んでいくと、気付いたことがあった。この小説の主要登場人物はみな暇なんだということ。使用人たちを除けば登場する人たちはおそらく人口の0.1%にもならない超富裕層の資産家か大貴族たち。この人たちは働くということをしない人たちで一日中暇。なにしろ調理、掃除、洗濯などはしなくてもいい身分で、今さらながら「有閑階級」というものがどんなものか知った次第だ。翻って我が身を照らすと仕事をしていないところは同じだが、日常の雑事は全部自分でこなさなければならない。だが、逆にこの雑事がない人たちの生活というのは何かしなければ何もしない生活だ。だからこそ昼食会だ、夜会だ、サロンだとお互いに暇を潰しあうんだとようやく悟った。もう一つ、その貴族なんだけど、小説の開始の舞台になっている20世紀に入る辺り(「ダウントン・アビー」も同じ頃。)でもまだ絶大な威光を放っている。フランス革命ですっかり絶滅したと思っていた階級が実はまだ存在していることに驚いた。さる大公夫人などはスエズ運河の株を大量に保有していると紹介されているのだ。この小説は革命から1世紀をかけて大貴族たちと肩を並べるほどの資産を手に入れたブルジョアジーの一人による社交界の冷徹な観察記録でもある。

 

 筋を追っていくと、今度は新たな問題に直面した。ストーリーだけでいうと個人的には20世紀を代表する小説とはとても思えない。この作品は言ってしまえば「疑惑と嫉妬」で言い尽くされると思うからだ。主人公は道を歩けば誰か女の子に出会わないか、馬車や汽車に乗っていればかわいい女の子を見かけないか、そして友人・知人に頼って紹介してもらおうという算段をする奴。何とか近づくことはできないかといじいじとし、嫌われているんじゃないか、他に付きあっている奴がいるんじゃないかと延々と書き綴り、つき合いはじめると半分幽閉するような生活を強いるとか、もう噴飯ものの内容なのだ。主人公だけでなく周りの人間が皆こんな調子で恋の相手に翻弄されている。そして困ったことにその相手というのは同性が多い。ココットに振り回されるというのはまだ健全なくらいで、大方の登場人物はいわゆる「プラトン主義者」で固めている。おまけに女性についても一部同様の扱いなのだ。我らが主人公もその一人に振り回される。主人公だけでなく他の登場人物のそれぞれの恋人に対する疑心をこれでもかと書き連ねているとさすがにうんざりしてくる。想像してみてほしい、全13巻の長大な小説のほとんどがそのような描写で埋まっているということを。何度もういい加減にしろと本を置きそうになったことか。

 

 それでも終盤になると大きな変化が現れる。第一次世界大戦だ。主人公はその頃から療養生活を余儀なくされてしばらくパリを離れる。おそらく1930年頃だろうか、療養生活を切り上げてパリに戻り、久しぶりにマチネーに招待される。そこで見たものは昔なじみの貴族たちの老いた姿だ。最後の「見出された時」は大貴族が開催する華やかな集まりが舞台だが暗い影に覆われている。かつて社交界の花だった女性たちもすっかり老いてしまい、男たちも精彩がない。このような集まりもかつてのような格式を失い、名家の来歴も知らない新参者がやってくる場に変わり果てている。主人公自身も時の経過に驚き、老いを意識する。だが、その前にもうすっかり自信を失って放棄していた文学への情熱がよみがえっていた。老いの自覚と忍び寄る死の影を意識しつつも新たな文学を築き上げるという情熱がわき起こっていたのだ。こうして小説の開始が宣言され物語は終える。それはそのままこの小説の冒頭に誘導しているかのようだ。

 

追記

 プルーストはカペー四重奏団を自宅に招いてベートーヴェンの後期カルテットを演奏してもらっていたと故吉田秀和氏の文章で読んだことがある。ものすごい話だと思う。こんなことができる生活というのはどういうものなんだろうか想像もつかない。この作品を読んでいても、主人公がピアノで「トリスタン」の一部を弾いたとか、ストラヴィンスキーとバレエ・リュスやドビュッシー、フランク等々の名前が出てきて音楽好きとしてはその度に嬉しくなってきた。そしてヴァントゥイユという作曲家が冒頭から登場し、その作品の旋律はなにかしら悲劇的な様相を帯びて全編に渡って言及される。もちろん架空の設定なんだとは思うが、どんな旋律なのか聞いてみたいものだと思った。

 

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