ハイドンを忘れてもらっては困ります

 セルの本領を発揮した演奏はと考えると、やはり古典派の作曲家のものなのだろう。衝撃的な出会いだったモーツァルトやその後真価を知るベートーヴェン。そして、今回のテーマであるハイドンハイドンを聞くようになったのはけっこう後になってから。没後になってリリースされた前期ザラモン・セットといわれている93番から98番までの6曲が3枚組みのLPになって発売された。その時は既にファンになっていたこともあって、さっそく買い求めたと記憶している。ただ、その時はやっぱりモーツァルトベートーヴェンに比べると地味だよな、と思ったものだ。何かすごく素朴な出来上がりで、訴えるものがないような。そんな思いで、そのLPもCD普及にあわせて他のものとあわせて処分してしまった。再会はアメリカのOdysseyという廉価版レーベルから発売されたCDで。ハイドンの交響曲にすっかりハマってしまったのはこのときから。聞いていて、とにかく楽しい。昔、中学校の時だったか、音楽の教科書にハイドンが紹介されていて、彼の交響曲は100曲以上あり、どれも皆同じようにできている。として、1楽章は何々、2楽章は何々と憶えていないが特徴を書き連ねていた。憶えているのが4楽章だけだが、こうあった。「生きる喜び」。まさしく、ハイドンの曲はこう呼ばれるのにふさわしい。その4楽章はまだまだバロックの尻尾を残しているのか、けっこうポリフォニックな処理を施されているところもあるが、フィナーレとあって速いテンポの曲だから勢いがあってそんな暗いもたついた音楽にはならず、一気呵成に大団円になる。これがよくて車の中でも良く聞くようになったものだ。

 こういう魅力をセルの演奏で知ったわけで、とかく冷たいをいわれるセルの指揮だが、このハイドンを聞くと全く逆なんだということがわかってもらえると思う。そういえば、93番の2楽章。”Largo cantabile”となっていて、美しいテーマが後期ロマン派もかくや、とばかりに綿々と奏されていき、最後に消え入るように終わるかと思ったら.......。ご存知ない方は聞いてのお楽しみ。ここではハイドンとともに、セルのユーモア精神というか、茶目っ気が存分に発揮されていると思う。ハイドンのユーモアといえば、次の94番の2楽章が有名。例の「驚愕(びっくり)」。居眠りしている貴族を驚かそうとハイドンが仕掛けたのだが、セルは本当にそれこそ現代の我々でもうっかり注意をそらすと、心臓によくない衝撃を与えるくらいの「バンッ」をやってくれる。最近、セルの録音が再発売されると、だいたい同じようなアルバムが出てくるのだが、新顔がある。そう、このハイドンのセットなのだが、これがセルの再評価の反映だと嬉しい。一時というか、昔、札響がハイドンはオケの基礎ということで毎回頭に彼の交響曲を演奏した時期があったが、これもセルの演奏を意識してのこと思いたいのだが、どうなんだろう。他の演奏者で聞くこともあるが、セルが作り上げるカッチリしたハイドンは聞くことができない。以前新聞でハイドンをしっかり演奏できる指揮者もオケもなくなってきたと読んだことがあるが、たぶんセルの演奏が念頭にあったのではないかと、これまた根拠なく推測している。

 ところで、以前読んだハロルド・ショーンバーグの指揮者列伝のような本にセルも登場していて、そこに気になる一節があった。うる憶えなのだが、セルとクリーブランド管弦楽団のことを「今さらハイドンベートーヴェン・オーケストラでもあるまい」というような書き方をしていたのだ。私はこの見解に同意しない。古典派のものならきっちりと演奏してけっこうだが、ロマン派以降のものは豊麗さに欠けるということなのだろうが、この点についてはむしろどなたかが書いていた「セルは古典派の音楽から出発してロマン派の音楽へと船出していった。」という方が的確だと思う。ということで、19世紀の作曲家の演奏にも書いていきたい。

 

 
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