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きみはいい子

 呉美保監督の映画「きみはいい子」をレンタルで見た。前作の「そこのみにて光輝く」がすばらしい映画だったので次作を期待していたが、今度は原作を読んでからと、今になってみると妙な思い込みでいたものだから上映中にみる機会を逸してしまった。わざわざ北海道は小樽市を舞台に設定してくれていたのに申し訳ない。遅まきながら見ての感想を綴っていこうと思う。ネタバレになってしまうかもしれないけど、そこのところはご了承願いたい。

 

 原作は中脇初枝さんの連作短編小説で5話からなっている。これをどのように映画にするのかなと思っていたが、そのうちの3話を取り上げて並行進行するという構成になっていた。原作自体が登場人物をオーバーラップさせる手法を取っているので自然な流れだと思う。脚本は前作と同じく高田亮さん。繰り返しになるけど、前作であれほど完成度が高い脚本をわずか半月ほどで書き上げたという物凄い人。ちなみに後になってから「婚前特急」も高田さんのものと知った。あの映画は笑った。作品全体に児童虐待が取り上げられている。映像になっているのは尾野真千子さんが演ずる母親についてだけなのだが、さすがに見る方も演じる方も耐え難いものがあるシーンだ。尾野さん、こういう難しい役を引き受けて力演していた。しかし、作品は児童虐待の真実に迫るというものではない。学校の先生、ママ友、近所のお婆さん、さらにその周囲の人達が関わりながら子供を、そしてその親を救っていくという話なのだ。抱きしめる、あるがままに受け入れるといったほんのささやかなことで人は救われていく。人と人が普通に触れ合う、肯定するいう当たり前のことでどれだけ人を前向きの気持ちにすることができるかということを訴えている作品だ。誰かに抱きしめてもらうことという宿題の報告をする小学生たちの姿はちょっとドキュメンタリー風になって、照れながらも抱きしめられた感想を述べる子供たちのシーンは良かった。

 

 キャストには前作に出演した池脇千鶴さんと高橋和也さんがいる。池脇さんは「そこのみにて」の前には「舟を編む」に出演しているのだが、この3作では全く別人。役が違えばそりゃそうだよと思うかもしれないけど、とても同じ人が演じているとは思えないほどの演技だ。とりわけこの映画では原作で描かれているママ友そのままの雰囲気を醸しだしていて驚いた。高橋さんも同様で、どうしても固定されたイメージから離れられない人が多い中でお二人の役者魂は凄いと思う。先生役の高良健吾さんは監督の意向なのか原作のイメージとは少し違うのだが、ひょうひょうとしながらも真摯な姿勢を貫く役を好演していた。

 

 この小説と映画については、映画化に当たっての中脇さんのことばにつきると思う。「世界を救うことはできなくても、まわりのだれかを救うことは、きっと、だれにでもできると思うのです。」そう、素直に受入れること、肯定すること、抱きしめてあげることでできるのだと思う。昔、韓流ドラマがブームになった時、ファンの女性の感想が紹介されていた。ドラマの中で登場人物が誰かに抱きしめられる、それをみていると本当に羨ましい。自分もああされたい、と。お隣の国ではそういうことがごく普通に行われているのかどうかは分らないけど、欧米の習慣だろうとはいわずにこれは恥ずかしがらずに取り入れてもよいのかなと思う。なお、原作では虐待にあって耐え難い生活を救ってくれた隣のお婆さん、どんなに不幸なことがあったとしてもその記憶が自分を救ってくれるという思いのきっかけになった同級生は日本人ではない。そのことの意味を考えている。

 

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大森潤子ヴァイオリン リサイタルを聞いて

 札響ヴァイオリン首席の大森潤子さんのリサイタルがKitara小ホールで開かれた。2006年に札響主席になってからほぼ10年が経つけど、その功績はこのたびのCDの解説の中で前札響正指揮者で東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団常任指揮者の高関さんが札響の第2ヴァイオリン・セクションが性格的で生き生きとした表情を持って演奏すると紹介していることに表われている。その大森さんのデビュー15周年とCD発売を記念してのリサイタルを聞いての感想を書き散らすことに。

 

 前半はモーツァルトト長調K.301とフランクのイ長調ソナタモーツァルトの方はト長調とはいいながらのっけから奏でられるテーマは軽快とか雅とは違った一抹の寂しさを交えたような不思議な旋律で、大森さんは力まず軽やかに始める。やや速めのテンポだろうか、そのこともあってすっきりしたモーツァルトになったような。続くフランクも思い入れを過度に表すことがなく、前のモーツァルトと同じ姿勢だがさすがに4楽章では大森さんらしい感情の解放があって抑えたままでは終わらなかった。

 

 後半はCDに収録された曲で構成されていた。最初はCDと同じくクライスラーの「コレルリの主題による変奏曲」から。覇気が感じられる演奏で、後半にかける意気込みが感じられた。テンポは録音よりわずかに速かったかな。「アヴェ・マリア」を経てパガニーニが。この「ラ・カンパネラ」を聞いているというか見ているとこの作曲家によるヴァイオリンの技巧というのが実感できる。フラジオとか左手の(!)ピッツィカートとか次から次へと難技巧の音楽が続くと一体どうやったら弾けるんだと思うが、それを百人単位の人の前で弾くというのはどれだけ安定的に弾けるかということでもあってただただ感心してしまう。これだけの曲を弾いた後がヴィエニャフスキの「モスクワの思い出」。これも超がつく難技巧の曲だと思うけど、この日の演奏の方が録音より完成度が高かったように聞こえた。技巧の冴えも光っていて、より一層カチッとした印象を受けた。フバイの「そよ風」をタイトルどおり軽やかにまとめた後はいよいよ「ツィガーヌ」となる。この曲は様々な楽想が10分強のこの曲に繰出されるのだがそれを的確に、音色の変化も自在に弾きわけて演奏する。このリサイタルのことを知ったとき、たぶんラストは「ツィガーヌ」だろうなと思っていたが、なんでもラヴェルパガニーニの「24のカプリース」を聞いてこれ以上の難技巧の曲を書こうと思ったとか。後半だけでもとんでもない難曲を弾いてさらにこれを弾くというのはどうなんだろうと思っていたが、この曲になって一段とヒートアップした。物おじせず、曲の昂揚そのままにどんどん弾き進める姿は大森さんらしいと感心しているうちに大詰めになったが、これをものすごいエネルギーで弾いていく。だからといって演奏が乱暴になっているわけでもなくその集中力はどれほどのものかと思った。最後の最後であれだけの演奏をする気迫は凄い。クールにテクニックの切れ味だけを聞かせてくれる奏者が多いのだろうけど、音楽のもつ感情の昂揚というものを含めて演奏する大森さんの姿勢は素晴らしいと思う。

 

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ホリガー讃

2015年9月の札響定期はホリガーさんを迎えての公演。ホリガーさんについてはツイッターのTL上でオーボエだけでなく指揮者・作曲者としても素晴らしいし、ピアノの腕前も凄いと紹介されいて以前から興味津々だった。演奏はまずオーボエ独奏でフンメルから始まった。ベートーヴェンと同時代に人くらいの認識しかなく、初めて聞くのだが最初に重々しい強奏で始まって思わず緊張した。ホリガーさんのオーボエの音はいたってクールだと思った。木管楽器の持つ柔らかさは少し控えめで鋭いとか神経質というのではなく、言葉どおりの意味でクールと表したい。ヴァイオリンのクレーメルの音の特徴に似た感じかな。のどかな古典様式の曲を想像していたら、独奏パートはけっこう大変そう。難しいパッセージが連続する曲だが、ホリガーさんはどんどんこなしていく。さすがにオーボエの神様のようにいわれる人だと思った。年齢を考えればなおさらだ。

 

続いてはシューベルト。「アンダンテロ短調」とあって、プログラムによるとあのハ長調交響曲の後に構想されたニ長調交響曲の一部だとか。低弦の再弱音による開始の後、オーボエ(!)がテーマを奏する。なんか寂寞感いっぱいの少し虚無的な旋律でけっこう暗くなる。少し後にファンファーレ的な主題も出てくるが、全体を通して最初のテーマが曲の雰囲気を決定しているような曲。音楽が進行していくととうとう弦首席によるカルテットになってしまった。そして再び低弦の再弱音による音楽。なんだか「未完成」みたいだなと思っていたら、なんとその「未完成」だった。まさかアタッカで続くとは思わなかったので意表を突かれた。それにしても両曲とも低弦の再弱音で始まりオーボエがテーマを奏するのだが、開始だけでなく全体的に音楽はかなり抑えられた感がある。ひたすら禁欲的に音楽が進行する印象が強く、弦や木管が楽器が持つ音の特色を十分に発揮させてシューベルト特有の旋律の美しさを際立たせることを避けているかのようだ。ちょうど指揮者のオーボエの音色のように。その代わり音楽の緊張度は高い。聞いていてそのピンと張りつめた様がいやというほど伝わってくる。これが両曲を通して最初から最後まで続くのだから、オケの集中はたいへんだっただろうと思う。その一方で強奏の部分はかなり量感をもって、しかし決して鋭くない柔らかな響きでホールを満たす。この対比も十分に考え抜かれた結果なのだろう。少々沈欝ではあるが、ホリガーさんのシューベルトに対するアプローチが十分に伝わる素晴らしい演奏だった。

 

休憩の後はバルトークの「オーケストラのための協奏曲」。この曲には思い出があって、一番最初に聞いたのが1971年4月16日の札響定期。シュヴァルツさんの指揮による演奏だったが、当時新聞で読んだのかプログラムにあったのかこの曲を指揮するにあたっての抱負を語っていた。自分としては札響の演奏会で現代曲も取り上げ、皆さんに聞いてもらいたいと思っていると。当時はバルトークもまだ「現代音楽」の時だった。正直、その演奏を聞いてよく分かったかというとそうでもなく、なんか凄いなあと思い現代音楽を聞いたんだという感慨にとらわれただけだったような。それから40数年がたち、こうして再び同じオケでこの曲を聞く。最初の序章こそ低弦の再弱音で始まり(これもだ!)少し重々しい印象があるが、「中断された間奏曲」になるとパロディと嘲笑のおふざけ的なところもあり、「終曲」の最後の大団円はある方のツイートで知ったのだがそれこそビッグバンド・ジャズそのものだ。いわれてみれば確かにそうだよなと膝を打つ指摘だった。この曲に関して作曲者は聴衆に媚びたと指弾されたというのもむべなるかななのだ。この曲がタイトルのとおり近代オーケストラによる合奏協奏曲だというのは知識として知っていたが、こうして実際にオケを見ながら聞いていると、なるほどもう木管金管が入れ替わり立ち替わりソロや二重奏を奏し続ける。なるほどそのとおりだな、と今さらながら感じ入ってしまった。録音で聞いているとなかなかそこのところが分かりにくい(自分だけかもしれないが)。それにしてもオケの皆さん、この曲を軽々と演奏しているようですっかり感心してしまった。テンポだって指揮者は決して遠慮していなかったと思うので、オケの実力はいかほどか。シューベルトではかなり緊張を強いられた(もちろん良い意味で)が最後は見事な大団円となって明るくコンサートを閉める。6月のエリシュカさん、7月のポンマーさんと今シーズン3回立て続けに名演が続き感無量です。終演後、指揮者は我々聴衆をそっちのけにしてオケに、オケは指揮者に盛大な拍手を送っていた。感動的な場面だった。ホリガーさんはまた札響で聞きたい。待ってます。

 

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オーケストラの伝統?

最近の札響とエリシュカさんの演奏を聞いて思ったこと。6月27日の札響名曲シリーズは1週間前の定期に引き続きエリシュカさんがタクトを振り、「新世界」ほかを演奏した。ドヴォルザーク交響曲は既に定期で演奏していたが、この曲は3年ぶりの再演になった。2012年4月の定期で聞いたときは2楽章の美しさが際立っていて、クラシック入門のときから何回となく録音、演奏会で聞いてきた曲ではあったがこの楽章がこれほどまでに歌い込まれた演奏は初めてだった。そして3年後にあらためて同じコンビで聞くことになったのだが、今度は全楽章が徹底的にじっくりと歌うという演奏になっていてもう散々聞いてきたこの曲の魅力をあらためて知ることになった。実は、翌日手持ちの録音3種を全部立て続けに聞いたくらいだ。続いてその7月に昨年11月の定期で演奏されたブラームスの第2ほかの全曲がCD化されて発売になった。この定期を聞いたときにはあまりメリハリを効かせたようには思えなかったが、じっくりと進めていき4楽章になると今までの積み重ねが生きてくるのか、十分な力感を持って最後のクライマックスに持っていったように思った。実はこのときにはことの半分しかわかっていなかったのだと思う。CDも最初聞いたときには4楽章の見事な大団円に拍手喝采だったのだが、翌日再度聞いてみてようやく気づいた。1、2楽章はメリハリを効かせるようなことがなく、悪くいえば平板だったかのように思っていたのだが、実はそうではなくて丁寧に歌っていたのだ。あの「新世界」と同じように徹底的に歌い込む、というスタイルで演奏されている。そうとわかるとこの最初の二つの楽章のきれいなこと。とりわけ弦の歌いぶりがすばらしく、この曲の美しさが際立つ。そうかあ、参ったなあというのが素直な感想だった。

 

このエリシュカさんの歌わせぶりに気づいたときに思い出したのが小澤征爾さんが1974年に札響を振ったときの新聞か何かに載っていた感想。札響のフレージングをとても褒めてくれて、これはシュヴァルツさんの功績だなあと語っていた。実際、このときの録音を聞くと最初に演奏されたハイドン交響曲第1番なんて古典様式なんか端から省みず、ひたすら歌いまくりでもう過剰なまでなのだ。シュヴァルツさんは確かバンベルク交響楽団首席チェリストを経て指揮者になったと聞いている。たぶん在任中は弦楽器奏者として札響に歌うことを柱に薫陶したのではないだろうか。もう一つ、歌うということではないのだが、今でもおぼえている演奏会がある。といってもまるで夢のように定かではない記憶なのだが、ノイマンさんが「わが祖国」を振った演奏会のこと。いつのことだかまるで記憶にないのだが、会場は確か札幌市民会館。同じ日に北海道厚生年金会館(当時)ではアメリカかどっかのオケが公演していて、(正直に言うと)その切符が買えなくて仕方なく札響の方を聞いたと思った。曲目も「わが祖国」全曲だったと思うのだが、どうだったのか全く定かではない。こんなとりとめもない記憶なのだが、演奏中と演奏後のいつにない只ならぬ雰囲気だけはおぼえている。それからだいぶ経ってから、指揮者が本国以外でこれほどの演奏をしたことはないと言っていたと聞いて、やはりそうかと納得したものだ。ノイマンさんといい、エリシュカさんといい東欧の指揮者と相性がよいのも札響の歌心にあるのではなかろうか。

 

カラヤンはかつてベルリン・フィルの奏者の入れ替わりがひんぱんにあってもオケが出す音は変化することはなく伝統は受け継がれていく、というようなことを語っていたのをおぼえている。欧米のオケではよくそういう伝統が語られる。昨今の札響の演奏は現在の首席奏者の皆さんになってからということが大きいと思っているので、安易に札響の伝統はなどということを語るつもりはさらさらないのだが、エリシュカさんが札響との演奏を大事にしてくれているのももしかしたら札響の歌う力にあるのかなと思う今日この頃である。

 

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"Zephyr"を聞いて

 今年になってからオペラのCDを聞いている。最初は「昔聞いたよな」くらいの懐かしさで始まったのが、古い録音なら安いこともあって大人買いしているうちにだんだんエスカレートしてしまい、最近はなにかしらの演目を毎日全曲聞くという日課になってしまった。さすがに食傷気味。ちょうどこういう時に札響ヴァイオリン首席奏者の大森潤子さんのCDが発売になった。重厚長大なオペラが続いているとこの小品集が胸に染みた。

 

 最近のヴァイオリンの演奏や録音を聞いていると弦の音が細くて鋭い人が多いなと感じていた。そういう音だとテクニックの冴えが際立つのだが、どうも神経質な感じに聞こえて気になっていた。その点、大森さんのヴァイオリンは適度な厚みがあっていかにも弦楽器を聞いているという気分になる。毎年行われているバッハの無伴奏のリサイタルの時は、会場が礼拝堂ということも大きいのだが、この曲を聞いていて時に感じるささくれ立った音色が中和されて曲の素晴らしさを素直に受け止めることができる。もっともこう書いたからといって鈍重な演奏だとは思わないでほしい。このアルバムのタイトルになっているフバイの「Zephyr〜そよ風」を聞いていただければその名のとおり軽やかにいろいろな音色を取り混ぜて弾かれているのが分かると思う。

 

 大森さんの演奏は札響を始めとして室内楽やリサイタルを聞いてきたが、とにかく音楽を奏でる情熱に満ちていて、聞いていて楽しい。周りの奏者をぐいぐいと引っ張っていくほどの気迫があるように思えた。実はこんなところはこのアルバムのブックレットに指揮者の高関健さんが寄稿していて、私がどうのという以上のことが書かれている。私としてはやはりそうなんだなあと納得した次第だ。

 

 このアルバムを聞いて一番印象に残ったのは「ツィガーヌ」で、とにかく気迫がこもっている。もちろん乱暴に弾いているというのではない。聞いていると10分強の中でいずれも難技巧な楽想が次から次へと繰出され、的確に弾き分けていくのはたいへんだろうと思う。これを様々な音色を使い分けてちゃんと弾いていく様はなかなかのもの。しかもただ正確なだけでなく、曲の持つ生命力みたいなものまで伝わってくる。凄いと思った。あと、「歌の翼に」と「アヴェ・マリア」のロマンチシズム。美しい旋律がきれいな音色で流れてお終いでなく、歌に何か切実さが込められているように聞こえる。ちょっとしんみりする演奏だった。解説によると大森さんの出自はフランス=ベルギー派のようなのだが、こういうドイツものも素晴らしい。2年前のリサイタルでのベートーヴェンソナタは堂々とした見事なものだったと思ったのだが。

 

 こうしてイギリスからロシアとヨーロッパを横断し、果てはアメリカにまで及ぶ様々な曲を聞き終えるとノスタルジックな気分に満たされる。ヴァイオリンの小曲集ってどうしてこんな気分にさせられるのだろう。子供の頃耳にしていていたのかな。

  

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「失われた時を求めて」

 読み終えました、ちょうど1年かけて。いくら全13巻の大作でもちょっと時間かけ過ぎかもしれない。思えば20年以上も昔、新聞連載小説にこの小説が登場したのが縁の始まり。主人公が定年になったら読もうと買揃えていたという件があって、それから2、3年後だったろうか新訳が出てきた。その時に買い求めたのがきっかけだった。その時は漠然としか考えていなかったけど、本当に定年になった翌日の4月1日から読み始めるとは思わなかった。

 

 読み始めてすぐにこれはたいへんだと思った。(ここから作品内容に触れていくのでご注意を)とにかく文章が難解なのだ。極端にいうと翻訳の日本語が日本語になっていないように思えるくらい。自分の読解力を棚に上げて、翻訳が悪いからかと思っていたのだが、どうも原文からして相当読みづらいものらしいことが分かった。20世紀の小説で最もすぐれたものの一つといわれているこの作品に挑戦してみようと思ったのだが、のっけから頓挫してしまいそうになった。とにかく滞在するホテルの部屋の様子、窓から見える海の風景とか夜会で演奏された音楽などなど全編に渡って精緻な描写が行われるのだが、正直、まるで理解できない。そして困ったことにこの描写が延々と続くのだ。ちょっとしたきっかけがあって夏に同時並行で「悲しき熱帯」を読んだのだが、ここでも船上からの夕景の描写が難解なうえに延々と続いて閉口した。詩でもなければ小説でもないのに。フランス人って、こんな表現に執着するのだろうか?

 

 のっけからこんな状況になって方針を転換した。理解しようなんて止める、とにかく読み進めよう。風景や心理の描写が続くところはもう割り切って眼球の上下運動に留める。ストーリーの展開を追うことに集中しようと。こうして読んでいくと、気付いたことがあった。この小説の主要登場人物はみな暇なんだということ。使用人たちを除けば登場する人たちはおそらく人口の0.1%にもならない超富裕層の資産家か大貴族たち。この人たちは働くということをしない人たちで一日中暇。なにしろ調理、掃除、洗濯などはしなくてもいい身分で、今さらながら「有閑階級」というものがどんなものか知った次第だ。翻って我が身を照らすと仕事をしていないところは同じだが、日常の雑事は全部自分でこなさなければならない。だが、逆にこの雑事がない人たちの生活というのは何かしなければ何もしない生活だ。だからこそ昼食会だ、夜会だ、サロンだとお互いに暇を潰しあうんだとようやく悟った。もう一つ、その貴族なんだけど、小説の開始の舞台になっている20世紀に入る辺り(「ダウントン・アビー」も同じ頃。)でもまだ絶大な威光を放っている。フランス革命ですっかり絶滅したと思っていた階級が実はまだ存在していることに驚いた。さる大公夫人などはスエズ運河の株を大量に保有していると紹介されているのだ。この小説は革命から1世紀をかけて大貴族たちと肩を並べるほどの資産を手に入れたブルジョアジーの一人による社交界の冷徹な観察記録でもある。

 

 筋を追っていくと、今度は新たな問題に直面した。ストーリーだけでいうと個人的には20世紀を代表する小説とはとても思えない。この作品は言ってしまえば「疑惑と嫉妬」で言い尽くされると思うからだ。主人公は道を歩けば誰か女の子に出会わないか、馬車や汽車に乗っていればかわいい女の子を見かけないか、そして友人・知人に頼って紹介してもらおうという算段をする奴。何とか近づくことはできないかといじいじとし、嫌われているんじゃないか、他に付きあっている奴がいるんじゃないかと延々と書き綴り、つき合いはじめると半分幽閉するような生活を強いるとか、もう噴飯ものの内容なのだ。主人公だけでなく周りの人間が皆こんな調子で恋の相手に翻弄されている。そして困ったことにその相手というのは同性が多い。ココットに振り回されるというのはまだ健全なくらいで、大方の登場人物はいわゆる「プラトン主義者」で固めている。おまけに女性についても一部同様の扱いなのだ。我らが主人公もその一人に振り回される。主人公だけでなく他の登場人物のそれぞれの恋人に対する疑心をこれでもかと書き連ねているとさすがにうんざりしてくる。想像してみてほしい、全13巻の長大な小説のほとんどがそのような描写で埋まっているということを。何度もういい加減にしろと本を置きそうになったことか。

 

 それでも終盤になると大きな変化が現れる。第一次世界大戦だ。主人公はその頃から療養生活を余儀なくされてしばらくパリを離れる。おそらく1930年頃だろうか、療養生活を切り上げてパリに戻り、久しぶりにマチネーに招待される。そこで見たものは昔なじみの貴族たちの老いた姿だ。最後の「見出された時」は大貴族が開催する華やかな集まりが舞台だが暗い影に覆われている。かつて社交界の花だった女性たちもすっかり老いてしまい、男たちも精彩がない。このような集まりもかつてのような格式を失い、名家の来歴も知らない新参者がやってくる場に変わり果てている。主人公自身も時の経過に驚き、老いを意識する。だが、その前にもうすっかり自信を失って放棄していた文学への情熱がよみがえっていた。老いの自覚と忍び寄る死の影を意識しつつも新たな文学を築き上げるという情熱がわき起こっていたのだ。こうして小説の開始が宣言され物語は終える。それはそのままこの小説の冒頭に誘導しているかのようだ。

 

追記

 プルーストはカペー四重奏団を自宅に招いてベートーヴェンの後期カルテットを演奏してもらっていたと故吉田秀和氏の文章で読んだことがある。ものすごい話だと思う。こんなことができる生活というのはどういうものなんだろうか想像もつかない。この作品を読んでいても、主人公がピアノで「トリスタン」の一部を弾いたとか、ストラヴィンスキーとバレエ・リュスやドビュッシー、フランク等々の名前が出てきて音楽好きとしてはその度に嬉しくなってきた。そしてヴァントゥイユという作曲家が冒頭から登場し、その作品の旋律はなにかしら悲劇的な様相を帯びて全編に渡って言及される。もちろん架空の設定なんだとは思うが、どんな旋律なのか聞いてみたいものだと思った。

 

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尾高さんと札響のマーラー第9

 今月の札響定期は尾高さんの指揮でマーラーの第9交響曲。この曲を実演で聞くのは多分学生時代以来かな。大昔の話になってしまうw。以前、札響事務局のアンケートで演奏希望の曲を問われてことがあったけど、その時にはどうしても札響でマーラーの第9を聞きたくてこの曲をリクエストしたことがあった(もっともパンフレットを見たら1996年と2003年にやっていた。どうして知らずにいたのか分からない!)。去年の今ごろ、今シーズンのプログラムが発表になった時にはやったあと喜んだものだ。その時はまだ尾高さんの去就が発表されていなかっのでこういう形でこの曲に接することになるとは思わなかった。

 

 最近はクラシック音楽でもDVDで映像とともに音楽を聞くことが多くなったようだけど、個人的にはオペラとかバレエというのでなければあまり必要性を感じていない。CDで音楽だけ聞こえてくれば十分だと思っているのだが、今回、こうして実演でこの曲に接するといろいろなことが分かって面白かった。ここはこの楽器が受け持っているんだとか、ここはこの楽器とこの楽器が重なっているんだとか。こんなことはスコア見たり、注意深くCDを聞けば分かることかもしれないが、藤四郎さんとしては感心しきりだった。とりわけ以前対向配置のCDを聞いてこの曲はずいぶんと第2Vnが目立つなと思っていたが、このたび何でここをあえてセカンドでと思うくらい美味しい所をいただいているのを知ったのは驚きだった。

 

 いつも演奏会が終わるとどこそこのセクションが良かったとか、どこのソロが良かったとか感想はあるけど、今回の演奏ではそれを書いていたら全パートを挙げなきゃならない。作曲者は「私の交響曲ではすべての楽器が歌わなければならない」と語ったそうだが、聞いているとというか見ているとこの言葉はとりわけこの曲に当てはまるような気がした。次から次へと主旋律がいろいろなパートに受け継がれていき、その際には別のパートが副旋律を重ねていく。場合によっては一つのフレーズで楽器の途中交代があったりしていやはやよくこういうふうに思いつくよなと感心しきりだったが、オケの皆さん、そこは本当にちゃんと演奏していてこれはこれで名人芸だよなとため息をつかんばかりだった。弦、木管金管、打楽器と全員野球ならぬ全員ソロ(少し大げさか)の演奏はすごかった。

 

 それと今回教えてもらったことがもう一つ。3楽章で4楽章のテーマが先取りで紹介されていてこれが最終楽章への先導役になっていることはすぐに分かるけど、このたびの尾高さんの指揮で単にテーマが出てくるだけではなく3楽章全体を通過して4楽章へと流れていくんだということ。今さら何を、と言われかねないが、でも多分尾高さんはここのところを強調したかったんじゃないかと踏んでいる。これがあって、4楽章の諦観というか彼岸の美というのか生きてくるのだなあと。消え入るように終わる最後の美しかったこと。自然体の音楽が身上だと思っている尾高さんだが、今回は少し違った。随所でマーラー特有の軋むような、皮肉な響きが強調され、指揮ぶりでもはっきり現れていたように思う。指揮者がいつもと違うなら、オケもここ何か月かはビシッと決めて冷たいくらいの印象を持ったけど、ここではけっこう熱を持った響きを聞かせてくれたと思う。何かこの演奏で札響はまた一段実力を上げたような気がする。

 

 来シーズンのプログラムが発表され、今シーズンで音楽監督を辞す尾高さんは10月に今度はブルックナーを振る。これはこれで楽しみだけど、この演奏を聞いたらまたぜひマーラーをとお願いしておこう。ここ何年かで第2、第3、第5だったから今度は何がいいかなと勝手に期待している。

 

f:id:polyphony3:20141025160844j:plainキタラホールからの帰り、中島公園菖蒲池を